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講演会報告「正しく知ることから始めよう 原子力発電と福島原発事故のこと」

アザラシさんの講演会の報告第二弾。

 

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2013年12月22日熊谷市において小出裕章さん講演会がありましたので

報告させていただきます。

この集会は、一般市民、市民団体、労働団体など様々な立場の人たちが

共同で実行した集会でした。
最終的には911名の参加がありました。
私も、実行委員の方に七夕集会(2013年7月7日にさいたま市で行われた小出さん講演会・子供さいたまネット主催)の経験をお伝えしたり、ほんの少しだけお手伝いをしました。

今回の集会を立ち上げたのは、熊谷地区労の森さんです。
熊谷地区労は「反戦・反核・反基地・反差別・反原発・護憲」を掲げる

労働団体で、森さんは、1973年伊方訴訟の頃から、「反戦・反核」運動の

一環として反原発運動を行っていらしたそうです。

これまで反原発運動は、盛り上がりと盛り下がりを何度も繰り返してきました。
1973年伊方原発設置許可取消の訴訟が起こる。

地域住民がみずから起こした訴訟。そこに母親たちも加わってきたが、

住民と母親たちが対立して、母親たちが去っていった。
1979年スリーマイル島事故が起きる。

一時的に市民の関心が高まるが、やがて関心が下がっていく。
1986年チェル ノブイリ事故が起きる。

市民(特に女性)の関心が高まるが、数年でまた関心が下がっていく。

運動の盛り上がりと分裂については、伊方訴訟に関わった小出さんも間近で

経験していらっしゃいます。

「原発と日本人」にもその辺の事情が載っています。(173-174頁)

伊方原発の反対運動の時、日本の若い女性特に母親グループが立ち上がった。
その時、新しく運動を始めた人たちが昔から運動をやってきた人たちのやり方を猛烈に批判しはじめた。
「人間に上下関係のヒエラルキーを作って誰かが司令塔のようにみんなに

命令を下してきた運動は間違いであり、一人一人が自白的に立ち上がる

自分たちの運動こそが素晴らしい」というもの。
そして昔からの運動をしてきた人たちが批判の矢面に立たされた。

しかし彼らも、自らの意志で運動を行っていたのであり、それを多くの

人たちが支えていたことを知っていた小出さんは新しい運動について

発言を行った。
「運動は自発的にやるのがいい。私もそうしてきました。

しかし新しくわき起こった運動だけが良いわけではないし、ずっと闘ってきた

人達の活動だって、尊重しなければいけない。

自分たちの運動が唯一で、別なものは全然駄目だという批判の仕方はおかしい。」

今回の集会は、「市民の中には労働運動に対するアレルギーがあり、労働団体にも市民運動に対するアレルギーがある」という状況からの出発だったそうです。

しかし現状を鑑みるに、今そのようなことを言っている場合ではない。
労働団体と市民団体と一般市民が共同で集会を持ち、排除し合う関係から共闘できる関係に進めて、今後の反原発運動を、立場の違いを乗り超えて

進めていくためのきっかけとしたい。
このような森さんたちの思いを小出さんが受けて実現した集会です。

集会ではまず館林市の雲龍寺の伊東住職がお話しをなさいました。
雲龍寺は田中正造が闘争の拠点とした寺です。
農民たちが鉱毒被害を訴える「東京大挙押出し」(非暴力デモ)は

雲龍寺から出発し、住職が農民たちを激励したそうです。
今年は田中正造没後百年であり、雲龍寺でもシンポジウムが行われたそうです。

以下に小出さんの講演内容を簡単に記します。

・○○○ はスライドの内容です。

・人類初の原爆:トリニティ 1945年7月16日(ポツダム会談の日) アラモゴルド砂漠
トルーマンは「これで戦後世界は自分の手中にすることができる。」と言った。

・原爆広島投下
・数々の核実験(原爆水爆)
・原子力にかけた夢(1954年 毎日新聞)

被爆国だからこそ、巨大な破壊力を正に転化したいという気持ちが多くの人々の心を捉え「核エネルギーの平和利用」が受け入れられていったのではないか。
広島長崎の被爆者にも核の平和利用に夢を抱いた人たちがいた。

・原子力発電 大量に必要とされる燃料と大量に生み出される放射性物質
・事故から無縁な機械はない ミスを起こさない人間はいない だから、原発は絶対安全だとは言えない。
・原発は核燃料施設は都会には作らないことにした(原子炉立地審査指針)
・原発は海暖め装置 電気出力100万キロワット 海温め200万キロワット
・核分裂はすぐに止められるが崩壊熱はすぐには止められない
・福島事故で大気中に放出されたセシウム137は広島原爆168発分(もしくはその2-3倍)
・北米大陸西海岸まで汚染されている
・関東東北のある区域が、本来放射線管理区域に指定しなければならない汚染を受けた
・この事態を引き起こした大人としての生き方
・私の願い 1.子供を被曝させない 2.一次産業を守る
・子供たちは被曝敏感
年齢が下がるほど被曝に敏感 新生児は全年齢平均の4倍の影響がある
・子供を守るための方策
避難 疎開 子供の集まる場所(校庭や園庭など)の土の剥ぎ取り 給食の材料を厳選する
・食品汚染を徹底的に調べる
子供に汚染度の低いものを食べさせる 汚染度の高いものは大人が食べる

・四大公害 水俣病 第2水俣病 四日市喘息 イタイイタイ病

・チッソ労組「恥宣言」(1968年)

水俣病の原因となった有機水銀を海に流した企業チッソが責任を回避する中、当初は労働組合も会社を守る立場から被害者と敵対していた。しかし、会社による合理化や組合つぶしの攻撃が水俣病患者への攻撃と同じものであることに組合はやがて気づき、1968年に「恥宣言」を出す。

「水俣病に対して私たちは何を闘ってきたのか? 私たちは 何も闘いえなかった。 安賃闘争から今日まで6年有余、私たちは労働者に対す
る会社の攻撃には不屈の闘いを組んできた。
(中略)
その私たちが何故水俣病と闘いえなかったのか? 闘いとは何かを身体で知った私たちが、今まで水俣病と 闘いえなかったことは、正に人間として、労働者として恥
ずかしいことであり、心から反省しなければならない。 会社の労働者に対する仕打ちは、水俣病に対する仕打
ちそのものであり、水俣病に対する闘いは同時に私たち の闘いなのである。」

・田中正造
真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし。

・「水俣が映す世界」原田正純

「水俣病の原因のうち、有機水銀は小なる原因であり、チッソが流したということは中なる原因であるが、大なる原因ではない。大なる原因は“人を人と思わない状況”いいかえれば人間疎外、人間無視、差別といった言葉でいいあらわされる状況の存在である。」

・足尾鉱毒で始まり、四大公害を経、そして福島原発事故を貫
いているものは、国を豊かにするという思想、そのもとで企業を保護し、住民は切り捨てるという構図である。
しかし、そうしてできた国は豊かと言えるのかどうか、今、私たちが問われている。

・田中正造
対立、戦うべし。政府の存立する間は政府と戦うべし。敵国襲い来たらば戦うべし。人侵入さば戦うべし。その戦うに道あり。腕力殺戮をもってせると、天理によって広く教えて勝つものとの
二の大別あり。予はこの天理によりて戦うものにて、斃れてもやまざるは我が道なり。

・かつての戦争の時、 大多数の日本人は戦争に協力した。 騙されたからだと言い訳をする人もいる。
福島原発事故を起こした今、多くの日本人は騙されていたと思うかもしれない。 しかし、騙されていたとしても、無罪ではない。 未来の子どもたちから問われる。
その時お前はどのように生きていたのか・・・と。

戦争の時は、一部の権力者だけが戦争を先導したのではない。
普通の人たちが、例えば戦争反対をする人たちを村八分にしたりして、戦争に加担した。

未来の子どもたちから問われても恥ずかしくない生き方をしたい。

・終わります

原発の非効率性、差別性、福島事故の汚染状況、今後大人たちがなすべき事、そして、足尾鉱山鉱毒事件に始まり四大「公害」を経て福島原発事故に至るまで、そこは共通する差別構造があること、そのような差別構造をなくすために闘った人たち、田中正造、原田正純の言葉、そして労働問題と「公害」問題が同じ構造であることに気づいた労働者の言葉、何度か聴いたお話しであるのに、やはり涙が出るのでした。

そして、世の中の一般の人たちが、とてつもないことに加担してきた歴史、関東大震災後に朝鮮人を虐殺したのも、戦争に協力したのも、今言論弾圧に加担しようとしているのも、みな一般の人たちであること、これらを改めて心に刻み、行動しなくてはならないと思いました。

当日の資料に入っていた「田中正造選集」チラシ。
そこに小出さんが書かれた推薦文を今改めて思い起こしています。
小出さんはこうやって生きていらしたのかな、などと思いながら。

「個人の力は国家の力に比べれ圧倒的に弱い。滔々と大河のごとく流れる歴史に多くの個人は流され、埋もれていく。しかし、個人の思想は国家と対等に対峙する力を持つ。」